別記01:お釈迦様
日本で通称「お釈迦様」と呼ばれていますが、正しくは釈迦牟尼で釈迦族の尊者の意味です。姓はガウタマで最高の雌牛を意味し、名はシッダールタで成就を意味します。父親は釈迦族の浄飯王(じょうぼんのう)、母親は摩耶夫人(まやぶにん)です。現在のネパール国にあるルンビニーの園で、お釈迦様は誕生しました。 私の義妹の友人でネパールの大学の美人教授が国際植物学会で日本に来たとき、ビフテキが食べたいというので御馳走したことがあります。彼女の姓は釈迦で、稲の病気が専門の植物学者でした。お釈迦さまの身内には「飯」がつく名前が多かったのですが、現代の釈迦さんも米が専門でした。ヒンズー教では牛を殺さないのですが、輸入牛肉はネパールでも食べるのだそうです。 実母の摩耶夫人は産後一週間で亡くなられました。死亡原因は産褥熱(産後の細菌感染症)であった可能性が高いと思います。十九世紀半ば、ハンガリーの産科医ゼンメルワイスは出産介助の前に手を洗うことで産褥熱が防げることを発見しました。この少し後、パスツールは感染症の原因が細菌であることを説き、これがコッホにより完璧な実験で証明されました。パスツールが考案した低温殺菌法(パスツリゼーション)はワインの腐敗を防ぎ、巨万の利益をフランスにもたらしました。感染症対策として予防接種は、天然痘に対して西暦紀元前からインドや中央アジアで種痘が行われていました、これがアラビア経由で西洋に伝えられましたが、危険を伴う予防法でした。ジェンナーは乳搾りのサラ・ネルメスから牛痘に罹れば天然痘に罹らないと聞き、召使として雇っていた孤児のジエームス・フィップスに人体実験をしました。非人道的な臨床試験でしたが、結果的には人類を救うことになりました。その後、パスツールのワクチン開発は多くの感染症治療に道を開きました。細菌そのものではなく細菌の産生した毒素が破傷風という病気を起こすことを証明し、かつ抗毒素血清を作って治療を可能にした北里柴三郎の功績も光っています。二十世紀前半フレミングによって抗生物質が発見されました。その後の研究で実際にペニシリンが作られ、平均寿命が急上昇する結果となりました。そして現在先進国では、妊産婦死亡は万が一以下となっています。
別記02:四門出遊
お釈迦様は老人と病人と死人を見て出家したという伝説です。 仏教は、お釈迦さまに始まるわけですが、お釈迦さまは、老人、病人、死人を見て、それから一人の出家修行者を見て、それで出家されたのです。老・病・死の苦しみを解決しようとして出家されたわけです。なぜ、恵まれた地位や家族や安楽な生活を捨てて出家したか。その動機を知ることは重要でしょう。仏教はお釈迦様が出された解答です。解答を知るには、まず問題を知らなければなりません。「四門出遊」の伝説によると、お釈迦様は、あるとき東の城門から馬車を走らせて出て行きます。そして途中で一人の老人に遇います。その老人は老衰のあらゆる症状をあらわしておりました。御者から、年老ることはすべての人間におよぶことと聞かされ、外出するのがつまらなくなって城に帰ります。同じように、二度目の外出のときも、南の門から出て行って重病人を見て感動し、病気というものについて御者の説明を聞いてお釈迦様は帰還します。三度目の外出のときは、西の門から出て行って、死人が担架にのせられ、嘆き悲しむ遺族がつきそって行くのを見る。御者に死というものの説明を聞き、青春と生命のはかなさを思い、老と病と死との苦しみを思って悲嘆にかきくれ、城に帰ってきます。最後に四度目の外出には北の門から出て行き、出家修行者を見る。そして、ここにこそ、老・病・死の問題の解答があると考えられたわけです。
別記03:降魔成道
お釈迦様は悪魔を退治(降魔)して覚醒を得た(成道)という。「悪魔とは何か」とお釈迦様に具体的に質問したラーダという弟子がいました。お釈迦様の答えは「色は悪魔である、受は悪魔である、想は悪魔である、行は悪魔である、識は悪魔である」でした。ここで、悪魔は色受想行識の五取蘊であると答えているのです。総ての苦を纏めた第八番目の苦である五取蘊、すなわち我という執着の要素の集まりがこそが悪魔であり、これらを退治したということは、全ての苦を滅尽したことになるのです。そしてお釈迦様は苦の縁って起こる(縁起)有様を観られたのです。
別記04:梵天勧請
梵天勧請という説話があります。 お釈迦様が仏陀として覚醒して間もない頃、人々に、その内容を話すことを躊躇されていた。その時に梵天が現われて「どうぞ説法して下さい」と勧請した(勧めた)という説話です。この説話には、癌の告知という現代の問題と共通するものがあります。梵天勧請説話とは逆に、悪魔が説法を思い止まらせようとしたという説話もあります。どちらの場合にも、共通するのは説法を躊躇したということです。躊躇したということは、二者択一を迫られたけれども、単純な二者択一では解決できない状況であったことを示しています。お釈迦様の教え「苦の縁起」は葦束の譬喩で示されます。「二つの葦束は相依って立つ、一方を取ると他方も倒れる」という喩えです。単純な二価値論理では答えられない非合理を示しています。 もはや治療法が無いような進行癌で死ぬ覚悟が必要であることは、「話せば解ること」ではありません。仏陀としての覚醒(覚り、覚悟)も「話せば解ること」ではなかったのです。言葉の解釈は追体験です。「梅干しが酸っぱい」ということを伝える場合、梅干しを食べたことがある人は、容易に追体験が可能です。梅干しを食べたことがない人に追体験してもらうには譬喩が用いられます。「レモンに塩をかけて食べたように」の如くです。仏陀でさえも教えられないこと、逆に人々が得たいと努力しても追体験が難しいこと、これを秘密といいます。 お釈迦様の答えは対機説法でした。対機説法は応病与薬と例えられ、相手の立場と状況を理解して、苦の緩和に役立つように話された。これは現代生命倫理における自己決定権の尊重に通ずるものです。 梵天勧請説話は、次のように続きます。「時に私は梵天の勧請を知って、そして人々の苦しみを和らげようと思う心に縁って―――」、そして、お釈迦様は説法を決意された。人々の苦しみを和らげようとする心、これを「悲」といいます。慈悲の「悲」です。この「悲」に縁って、お釈迦様は説法を決意されました。 梵天勧請説話は、さらに次の様な詩が続きます。 耳ある者達に不死甘露の門は開かれた。信を捨てよ。 梵天よ、人を害すると想って、私は妙法の説法を躊躇したのだ。 お釈迦様のこの言葉にあるように、真実は人を害する。癌の告知は人を傷つける。しかしその厳しさは同時に、死を覚悟した人に真の思いやりや優しさを獲得する機会をも与えるのです。
別記05:自己決定権
ジェレミー・ベンサムが引用して有名になった「最大多数の最大幸福」、この功利主義の原則を質的に修正して「太った豚であるよりも、痩せたソクラテスの方が幸福だ」と主張したジョン・スチュアート・ミルは1859年に『自由論』を著して自己決定権を説いた。ここでもソクラテスの例が参照された。古代ギリシャにおいて最も尊敬されてしかるべきであったソクラテスを、正当に行われた裁判において、多数決で死刑にしてしまった。多数のために個人が犠牲になってはならず、少なくとも個人的なことに関しては自己決定権を認めるべきだと主張した。次の5項目に整理される。①判断能力のある成人は、②自分の身体や命という個人的なことに関して(所有権)、③他人に危害を加えない限り(他者危害の原則)、④例え自分に不利な選択であろうとも(愚行権)、⑤自己決定権を有する。喫煙の場合を当てはめてみると、自分を苦しめて命を縮めることは愚行権として認められるが、受動喫煙被害があり他者危害の原則に反するので、他者がいる場所では喫煙の自由は認められない。他人のタバコの煙を吸い込む受動喫煙は重大な被害をもたらします。成人の慢性呼吸器疾患の罹患を増し、かつ増悪させます。小児の急性呼吸器疾患も増加させます。また、肺がんになる危険性が著明に高まります。虚血性心疾患の危険度も高まります。母親の喫煙により乳幼児突然死が倍増します。妊婦の受動喫煙で未熟児や脳障害、心臓病、流産、死産が増加します。喫煙は健康被害のみならず経済的損害をももたらします。タバコによる損害は年間五兆六千億円(医療費三兆二千億円、休業損失二千億円、消防清掃費用二千億円、喪失国民所得二兆円)で、タバコの経済メリットは二兆八千億円、差し引き二兆八千億円の損失という試算があります。平成十四年七月に「受動喫煙の防止」を含む健康増進法案が参議院にて可決成立し、平成十五年五月から施行されました。「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」とあります。以前は曖昧だった受動喫煙の被害の責任を、喫煙者ではなく、その場所を管理する事業主としたのです。しかし、殆どの飲食店で未だに灰皿が置いてあり取り締まりも行われていない現状です。喫煙被害による苦を減らすには、管理者のみでなく、やはり加害者責任も問う必要があるのでは無いでしょうか。
別記06:ポストゲノム
ゲノムとは、遺伝子Geneに総体を意味するomeという語尾がついた言葉です。ヒトのゲノムが設計図となってヒトは生まれます。ゲノムの実体は細胞の核にあるデオキシリボ核酸(DNA)で、四種類の塩基が二本の糸の様に連なって二重螺旋の形をしています。ここに遺伝情報が書かれていて、四種類の塩基が文字に相当し、三つの文字ので一つの単語となります。ヒトのゲノムに含まれる塩基の総数は約三十億であり、この三十億文字の全体を読むという壮大な研究が「ヒトゲノム計画」でした。そしてアメリカ合衆国、英国、日本、フランス、ドイツ、中国の六ヵ国、計二十機関、研究者約二千八百名の国際協力により、二〇〇四年一〇月に「ヒトゲノム計画」は完了しました。
この国際協力チームに対抗して、私的企業の特許取得を目的とした大規模研究がありました。もし企業が特許をとってしまうと、その知識は一部の人々に所有され、多くの人々の幸せに繋がる利用が制限されてしまいます。国際チームは、判明した塩基配列を公的データバンクに毎日登録し、世界中の誰でも利用できることにして、企業の特許取得に対抗しました。科学は地球上の誰もが自由に利用できる人類共通の知的資産であるべきです。国際チームの研究者二千八百名の不休の努力が、この理想を守りました。「我がもの」という執着を離れ、他者を差別しないという理想は般若心経に共通するものです。
かくしてヒトゲノム全体の文字は解読され、そこに書かれている内容を検討する段階に入りました。ゲノム解読の後という意味で、後を意味する接頭語ポストをつけて、ポストゲノムと呼ばれます。
別記07:WHO遺伝医療に関する指針
WHO遺伝医療に関する指針を読むと、私は七仏通戒偈を思い起こします。七仏通戒偈は、過去の七人の仏が共通して説いたという「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」です。昔、坐禅中の唐の巣力という僧侶を、高名な詩人李白がからかって言ったそうです。「何をしているのか?」「仏教の心の制御です」「仏教とは何か?」「諸々の良いことをし、悪いことをしない、これができるように自ら其の心を浄らかにする、これが諸仏の教えです」「悪いことをせず善いことをするなど、七歳の子供でも知っているぞ」「七歳の子供でも知っていることですが、私は七十になっても未だにできないのです」。
医療倫理の原則で諸悪莫作に相当する倫理規範は、危害を加えないという原理です。衆善奉行は、個人及び家族の福祉を最優先させるという原理に相当します。自浄其意は、人々を公正、且つ公平に扱うことです。諸仏の教えは対機説法であり、自己決定の尊重に通じます。
遺伝データは、本人の承諾なしに、保険会社、雇用者、学校、政府機関に伝えてはならない。保険会社等はテストの結果にアクセスしてはならない。健康状態に直接関与しない検査結果たとえば配偶者が実父でない事実等は関係者に開示しなくてもよい、等々が指針に含まれています。
別記08:筏の譬喩
彼岸という言葉は、初期の般若経典の翻訳で使われ始めたようです。完成という意味の「波羅蜜多」を、美しく譬喩的に「到彼岸」と訳したことに由来します。これは、遡れば、お釈迦様が説かれた「筏の譬喩」に辿り着きます。お釈迦様が説法された「法」は、法それ自体が目的なのではなく、幸福をもたらす手段なのです。そして、その根本は「無執著」だと説かれました。
「街道を歩み行く人が、大河を見た。此の岸は危険で、彼方の岸は安穏だとする。此の岸から彼方の岸に行くのに舟も橋もない。それで筏を組んで彼の岸に渡った。彼岸に達したときに、次の思いが起こった。この筏は実に役に立った。この筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで行こう、と。かれは筏に対してなすべきことをなしたであろうか。筏を捨てて行くことが、筏に対してなすべきことである。比丘たちよ。このように、彼岸に渡るために、執著を離れるために、この筏の譬喩の法を説いた。比丘たちよ、実に筏の譬喩を知っている汝らによって、法もまた捨てられるべきである。いわんや非法をや。」
苦の此岸から、楽の彼岸に渡るための筏こそが仏法、現代の言葉で仏教です。彼岸に渡ったら筏を捨てる。仏教は仏教自身にも執著しない、無執著そのものにも執著しない、ということを筏の譬喩は指し示しています。何かの如くという直喩ではない「筏」のような譬喩を隠喩といいます。隠喩は西洋の言葉ではメタファーといいます。メタは「越えて」、ファーは「運ぶ」という意味です。大河を越えて人々を彼岸に運ぶ「筏」は文字通り仏教のメタファーなのです。
別記09:「空点の秘密」について
私が見た梵文般若心経では「空」を示す部分に「空点」が皆抜けています。空を空ずるという言葉がありますが、まさに「空点」が空(からっぽ)になっています。仏陀の目覚めという秘密を教えるために故意に間違えているのではないか、これに気づかせることで秘密の解釈(ヨーガによる追体験)を助けるのではないかと思います。
五蘊は釈尊が四諦の苦諦を纏めた五取蘊で、我に関する執着の要素の集まりです、ここで「取」と漢訳されたウパーダーナは執着という意味です。五蘊はあらゆる苦を纏めたものであり、これが空っぽになるということは一切の苦が消滅することになります。自分という執着が完全に空っぽになる、無我無執着、これは「話せば解る」ことではなく、努力しても追体験が難しいこと、まさに秘密です。この秘密語「空」を示すために「五蘊皆空」の部分の空点を空っぽにしたのではないかと思われるのです。ターン(それらを)チャ(そして)が連声でタームシュチャとなり、ここで空点(ム)が出現します。ここで空点(ム)を空にしてターシュチャと書いてあります。点を抜くならターン・チャのままでよく、ターシュチャにしてしまっては「点で話にならない」のです。
非常に古い般若心経法隆寺写本でも空点を空にしています。慈雲尊者もこの部分の空点を空にしました。さらに、先代西明寺住職が頂いた人間国宝青木融光大僧正の梵文般若心経でも「五蘊皆空」の空点が空じられています。
隠喩が計算された間違い、ギルバート・ライルの範疇誤謬である様に、「我」という実存範疇を飛び出る為に「空点を空ずる」という意図的な間違いを犯しているのではないでしょうか。このようなことは言葉で伝えられていないようなので、般若心経の秘密の「点」なのではないかと思うのです。
別記10:「実体と実存」について
「実体が無い」という言葉が「空」を解説する際に使われることがあります。『般若心経』には「空」という形容詞が厳密には一度だけ出てきます。「五蘊皆空」の部分です。「色即是空」等、他の部分で空と漢訳されている言葉は通常「空性」と訳され、「空なる存在」を示す名詞です。では「実体」とは何でしょうか。
仏教の古典で「実体」という言葉が使われることは少ないと思います。仏教辞書を引くと、通常「自性」と訳されるスヴァバーヴァの意味で使われることもあるようです。「五蘊皆空」は五蘊の自性空ですから、実体を自性の意味で使ったなら「実体は空である」という意味になります。
現在「実体」という言葉が用いられる場合、多くは西洋哲学の言葉「サブスタンス」の翻訳語として使われます。サブスタンスは「下で」という意味のサブと「立つ・支える」という意味のスタンスから成る言葉で「根拠となる本当の姿」という意味です。だから、実体は「有るか無いか」ではなく、実体は「何なのか」が問われるべきです。そして我の実体こそが「空性」なのです。
「実存」という西洋哲学の言葉はエグジステンスの翻訳です。「外に・離れて」という意味のエクスと「立つ」という意味のシステレから成る言葉で、「本質」エッセンチアの外に立つものです。これに関してプラトンの「他」という説明があります。「他」は「他」自身に対しても「他」であるというのです。このような「我」の在り方が実存です。「色は我であるか、否」「受は我であるか、否」等、仏教の特徴を一語で表現すれば「非我」となります。分別智の範囲では「我」と「本質」は常に離れています。能観所観が一致した無分別智、すなわち般若波羅蜜多において「我」は「空性」に一致するのです。
別記11:「阿字観」について
梵語で「ア」は否定の接頭語です。漢訳すれば「不」「無」「非」となります。般若心経では「不生不滅不垢不浄不増不減」の「不」が梵語の「ア」です。「ア」は前記プラトンの「他」のように「ア」自身でもありません。このような「ア」を本尊としてヨーガを行うのが阿字観です。般若波羅蜜多において「我」は「ア」に一致します。この状態を「阿字本不生際に住す」といいます。
阿字観では阿字観本尊という掛け軸を用います。掛け軸には梵字の阿字と、一肘量(肘から先の大きさ)の月輪(満月の形、「がちりん」と読む)と、八葉の蓮華が描かれています。
以下に私達が行っている阿字観の次第(手順書)を示します。
阿字観法
- 入堂 手を洗い、口をすすぎ、心身を浄めて道場に入る。塗香。
- 三礼 阿字観本尊の前で起居礼。
- 着座 姿勢を正してしかもゆったりと安らかに座る。
- 浄三業 未敷蓮華合掌
観念「蓮華は泥中にあっても浄らかなように、この私の身も心も、本来すなわち般若波羅蜜多において清浄である」 - 発菩提心 金剛合掌 「おん ぼうじしった ぼだはだやみ」 三返
- 三摩耶戒 金剛合掌 「おん さんまやさとばん」 三返
- 五大願 金剛合掌
「衆生は無辺なれども 誓って度さんことを願う
福智は無辺なれども 誓って集めんことを願う
法門は無辺なれども 誓って学ばんことを願う
如来は無辺なれども 誓って事えんことを願う
菩提は無上なれども 誓って証らんことを願う」 - 五字明 金剛合掌 「あびらうんけん」 七返
- 調息 法界定印を結んで静かに呼吸し息を調え心を静める。阿息観。
- 月輪観 法界定印
目を半眼にして掛軸本尊の月輪を見つめ、目を閉じて、自分の胸の中に月輪を引き入れる。その月輪をだんだん大きくしていって、その中に自分がすっぽり納まる。さらに建物の大きさの月輪、この町の大きさの月輪、地球の大きさの月輪、宇宙全体の月輪と広げていく。そして逆に縮めてきて、掛軸本尊に戻す。 - 阿字観 法界定印
目を半眼にして阿字観本尊を見る。月輪、蓮華、阿字の形と色を充分に観じる。静かに目を閉じて、眼前に阿字観本尊を観じる。眼前に明瞭に阿字観本尊が観じられるようになったら、胸中に引き入れて自分の胸の中に阿字観本尊を観じる。胸中の阿字観本尊をだんだん大きくしていって、自分がすっぽりと阿字観本尊に入る。本尊が我に入り、そして我が本尊に入る。月輪に円満した徳、すなわち貪欲を離れる清浄、瞋恚を離れる清涼、そして愚痴の闇を照らす光明を観じる。八葉の蓮華に清浄なる自分自身の心臓、大悲胎藏生曼荼羅を観ずる。阿字に空・有・不生なる本来の自己を観じる。しばらくしてから、本尊を元の掛軸本尊に返す。 - 経 金剛合掌
般若心経一巻を唱える - 回向 金剛合掌
「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に 仏道を成ぜんことを」 - 三礼 阿字観本尊の前で起居礼。
- 出堂 金剛合掌したまま、静かに道場から出る。
大悲胎藏曼荼羅の中心にある八葉の蓮華について解説します。中心に大日如来、八葉に四仏四菩薩が描かれています。八葉蓮華の直下(通常行者が修法をする位置)には般若波羅蜜多菩薩が描かれています。四菩薩は文殊(右下)、観音(左下)、弥勒(左上)、普賢(右上)です。これらの菩薩が対応する仏陀として、開敷華王、無量寿、天鼓雷音、宝幢の四仏が、それぞれ南(右)、西(下)、北(左)、東(上)の位置に描かれています。これら四仏四菩薩は、それぞれ平等性智、妙観察智、成所作智、大円鏡智の四智に対応しています。四智を合わせた法界体性智が大日如来の智慧となります。
仏教では我執を第七識、末那識といいます。末那識を浄めて平等性智を得ます。第六識、意識を浄めて妙観察智を得ます。眼耳鼻舌身の前五識を浄めて成所作智を得ます。第八識、阿頼耶識を浄めて大円鏡智を得ます。八葉蓮華については、このように観想します。